1.安重根義士の東洋平和論
安重根義士を追悼する会がその処刑されて100年の命日に当たる3月26日、韓国のソウルをはじめ世界各国のゆかりの地で式典が開催された。
安重根義士に関しては、日本の元勲にあたる伊藤博文公を暗殺したという一点で、テロリストと見られがちな面もあるが、韓国では祖国の独立運動に命を捧げた愛国者として顕彰されている。この両国の評価の違いは、それぞれの側面からすれば、やむを得ない面がある。一国の愛国者が他国では侵略者とされる例は歴史上では、それほどめずらしいことではない。
しかし、安重根義士の場合、その生き様や裁判においての弁論と姿勢などから、安重根義士に接した人々に深い感銘を与えたことが知られている。
特に、旅順の監獄の看守であった千葉十七は、当初その暗殺という点で憎しみを募らせていたが、後にその人柄と志を知り、感銘を受け、その態度を改めて接し、処刑後は、その菩提を弔ったことは有名だ。
今でも千葉十七の宮城県の菩提寺・大林寺(住職・斉藤泰彦氏)では、その安重根義士の霊を祀っている。それは千葉十七だけではない。裁判に関わった人々の多くが、安重根義士の信念といさぎよい生き方に感銘を受けたことがそれを如実に示しているのである。
そのような敵をも味方にした安重根義士の姿勢、信念の本質とは何だったのだろうか。処刑100年という節目の年を迎えて、そのことを考え、平和とは何かということを思いを致してみたい。
その場合、忘れてはならない面は、暗殺ということをどう見るか、ということだろう。確かに、暗殺という面のみをみて、それが手段とみれば、今の世界で起こっている自爆テロのようなイメージを受けてしまう。
だが、この両者は同じではなく、今横行するテロは無差別な大衆の殺人をも引き起こす無慈悲なものである。それに対し、安重根義士のテロは韓国の独立運動下において義兵として立ち上がり、韓国を植民地化した日本の責任者として暗殺したという違いがある。
独立戦争という中での戦争であり、非常なる手段が暗殺だった。何よりも、その志は日本を敵視することではなく、日本の本来の精神、明治天皇に体現された東洋平和を取り戻すことを願ったものであることに注意するべきだろう。
その意味では、安重根義士は単純な反日ではなく、どちらかといえば、日本国家の覚醒を願った知日・あるいは親日的な立場であったということになる。国家の次元を超えていた愛国者だったということができる。韓国だけを愛するだけではなく、敵である日本さえも愛の次元で抱擁しようとしたのだ。
その背景には、本来の敵さえも愛するキリスト教的な精神が息づいていたことは間違いない。しかし、その願いとは違った歩みを日本が取るようになった時、安重根義士はみずからの命を捨てて、祖国を生かす道を選んだ。祖国のために命を捧げることを通じて、多くの人々が立ち上がることを望んだ。
そのような彼の信念の背景にあるものは、東洋精神で世界平和を実現することが願いだったことを知らなければならない。本来、日本と韓国は平和に提携し、西洋文明の弱肉強食の論理と戦い、東洋文明を中心に平和をうち立てることが本来の願いだった。
それにもかかわらず、その期待が裏切られ、日本は西洋列強と同じように韓国を植民地化する道を選んだ。だからこそ、安重根義士は日本の覚醒を促すために最後の非常手段を取らざるを得なかった。
暗殺という手段は、安重根義士にとってできれば避けたい事態であったということが出来よう。その姿勢は、暗殺に至った動機を記した文や未完となった「東洋平和論」に結実している。
安重根義士が願ったのは、韓日、そして中国が共に平和理想を抱きながら、同じ東洋精神文明を中心に世界平和を実現するというものだった。その東洋平和、世界平和を願う安重根義士の未完だった精神の完成こそ、今われわれが行なわなければならないことである。
平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)
【参考リンク】安重根(Wikipediaより)
【参考リンク】安重根「東洋平和論」