20.天高く馬肥ゆる秋

2011年11月2日

 秋は実りの秋、読書の秋というように日本では一年のうちでも、暑くもなく寒くもない一番過ごしやすい気候である。柿やリンゴの果実など、山のものも、海のものも豊富な季節であり、「食欲の秋」とも言われている。

 日本では「秋」は平和で豊かな季節というイメージだ。それを象徴する言葉が「天高く馬肥ゆる秋」である。秋のイメージを代表する言葉で、平和で豊かな状態を指す言葉と日本では受け止められている。


中華思想の概念図

 が、この言葉の元になっている中華思想では、日本とはまったく違ったとらえ方がされている。漢時代の史書『史記』で、司馬遷は草原を駆け抜けて漢帝国を脅かした北方民族の匈奴(きょうど)の列伝を記しているが、その脅威を「秋高馬肥」という表現をしている。

 秋になれば、肥えた馬に乗って匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・契丹(きったん)・モンゴルが南進してくる、その侵略に警戒しなければならないという意味である。中華帝国に比べて、厳しい気候条件にあった北方地方は、モンゴル高原では冬はマイナス30度にもなるほどだった。そんな冬を生き抜いた人々も馬も栄養不足から春は鋭気を養い、そして、夏には馬は草原の草を食べ、徐々に肥え太っていく。そして、秋になればまるまると太り、栄養もゆきとどき、気力充実となった馬にまたがり、騎馬民族の兵が豊かな中華大陸へとその略奪の軍を進めるのである。

 そのために、馬が肥え太った季節である秋は、騎馬民族にとっては狩りの季節であるが、それに対し、中華の農民にとっては秋の豊かな実りを略奪される危機が訪れる時であった。世界遺産である万里の長城は、この北方からの脅威を防ぐためのものだった。万里の長城は、秦の始皇帝が築いたといわれているが、その実、それ以前から築かれていたものを延長し、補修し、そして完成させたものである。

 古代からずっと北方からの脅威はいつの時代もあったのだ。その意味では、「秋」というのは中国では、侵略の危機に襲われる季節であり、日本で考えられているように安全で平和な季節ではない。むしろ逆に、戦争の影に怯える季節であり、その備えのために準備するための季節であった。それは常に中華帝国と同じように地続きで北の騎馬民族や南の倭寇から侵略されてきた朝鮮半島でも同じだった。

 中国文学者の興膳宏は、明確に「天高く馬肥ゆる秋は外敵に対する警戒の語であり、食欲とはまったく関係がない」と述べ、本来は安全保障を促す言葉であると指摘している。しかし、日本は海があったために外敵からの脅威を受けることが歴史的にみて元寇(げんこう)以外ほとんどなかったために、日本人は「秋」に対して実りと平和・安全というイメージを抱くようになったのである。

 しかし、今や世界は海という自然の防御線も、万里の長城のような城壁も現代兵器で跳び越えてしまう時代となり、備えがなければいつ飛行機や船によって侵略を受けても不思議ではない。現在、韓国も日本も、そうした身近な危機を迎えているといっていいだろう。その意味では、日本と韓国は民主主義を奉ずる一衣帯水の国同士で緊密に提携し、軍事的な脅威を防がなければならない。

 平和な関係が壊れるのは、軍事力という備えを怠った平和に惰眠し飽食した時に起こることは歴史が示しているからである。繁栄を誇ったギリシャ・ローマ帝国などの終焉もしかりである。

 かつて、韓国の李氏朝鮮王朝時代の東方の聖人と呼ばれた李栗谷(イユルゴク)は、その慧眼(けいがん)から北方の騎馬民族や南の日本からの侵略の危機を憂えて、「十万養兵」を説いたことが知られている。もし、李栗谷の建言が受け入れられていれば、全国土を蹂躙(じゅうりん)される豊臣秀吉の朝鮮出兵の悲劇を食い止められたかもしれない。侵略の危機は備えのないところにやってくる。

「備えあれば憂いなし」という強い防衛意識があれば、その大きな危機を回避できる可能性があるのだ。その意味で、改めて「天高く馬肥ゆる秋」、この国防の問題を考える必要性を感じるのである。
 

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 中華思想(Wikipediaより)
  万里の長城(Wikipediaより)

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