17.スポーツ精神が平和の礎に

2011年8月3日

 FIFA女子ワールドカップ2011で、日本のなでしこジャパンが強豪で格上のアメリカを破って世界一になった。

 体格が西洋人に劣る東洋人のチームがそのハンディをものともせずに、堂々と闘い、気迫と運動量で圧倒したのは見事というほかはない。その試合が男子サッカーにも勝るとも劣らないスリリングなものだったが、それとともに、目を引いたのは、彼女たちが見せたフェアプレーの精神だった。

 危険な行為にはイエローカードやレッドカードが出されるが、それがかなり連発される男子サッカーに比べて女子サッカーは、おおむねそうした危険行為が少なく、見ていて気持ちのいいものだった。スポーツの試合はかくあるべきという見本のような試合だった。技と技、力と 力、気力と気力のぶつかり合い。男子も、彼女たちの姿勢に学ぶべきであるとさえいっていい。

 なぜなら、スポーツマンシップの神髄としてオリンピックではフェアプレー精神が謳われるが、実際にはドーピングや違法スレスレの行為がまかり通っているケースがあるからだ。スポーツは勝ち負けではなく、参加することに意義があるとされたオリンピックも、参加した国家によっては国威発揚や勝者にはさまざまな特典がつき、当初のスローガンは空洞化している面がある。

 勝つために国家を上げてプロなみに選手を選抜して育成をし、インフラの環境を整え、その膨大な財力の投資によって勝者を作り出そうとするのだ。国威発揚の手段としてスポーツ、オリンピックを利用しようとしているとさえ言えよう。

 それは国家だけの問題ではなく、選手個人にとっても変わらない。勝つことによって名誉だけではなく、年金などでその後の生活が保証されるとすれば、フェアプレーよりも勝つことを優先してしまうだろう。それは、戦争のような争いではなく、肉体の限界を超えて闘い、勝ち負けを超えて互いに相手の健闘をたたえ合うという、本来の平和な精神を損なうことだと言っても過言ではない。

 特に、戦闘的なスポーツ、サッカーなどでは、勝負にこだわるあまり、相手を罵倒したり、審判が見ていなければ意識してケガをさせてしまう危険な行為を平然と犯すこともいとわない状況がまかり通っている。これは真の意味で、世界平和を生み出す精神とは言えないだろう。

 改めて、われわれはスポーツ精神とは何か、それを通して世界の人々と平和な交流をするという、その原点を考えなければならない。勝負にこだわる精神の背景には、弱肉強食という勝者が世界を支配してきた歴史が横たわっている。勝たなければ生き残れないという人類史の掟が底流に流れ ている。

 それを是正するために、スポーツの祭典であるオリンピックが生まれた。古代ギリシアに発祥したオリンピックは神聖な神々に捧げる宗教的行為であり、戦争を中止して試合をし、互いに健闘をたたえ合った。それが近代オリンピックにも生かされ、フェアプレーを謳い、平和に互いに公平に闘うというルールが決められた。この背景には、ヒューマニズムを旨としたキリスト教精神が流れているといってもいいだろう。

 しかし、今や世俗化したキリスト教精神とともに、オリンピック精神も迷走してしまった。勝ち負けにこだわるもう一つのスポーツという戦争となってしまった。その点で、2018年の冬季五輪が韓国の平昌で開催されることが決定されたことは意味がある。それによって、韓国が世界有数のスポーツ大国となった。その気運によって、 分断された韓国が平和な統一をなすきっかけを作ってほしい。

 また、共生、共栄の精神によって世界平和の先がけの国になることを願う。それが勝ち負けを超えて、人類が兄弟姉妹として共に助け合い、共に喜び合う、そのような東洋と西洋の真の意味での和合の時代の始まりになるかもしれない。その意味で、平昌冬季五輪、そして、夏季五輪へ再び候補に名乗りを上げた東京都の五輪が実現されれば、間違いなく東洋の地から新しい世界平和への力強いメッセージになるだろう。

 オリンピック本来のフェアプレーの精神、世界平和への祈願を込めて正々堂々と闘い、互いに健闘をたたえ合う東洋の精神文明の復興、それこそが世界へ新しい世紀、新しい時代の幕開けを告げる第一歩ではないか。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 サッカー日本女子代表(Wikipediaより)
  近代オリンピック(Wikipediaより)

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