2.世界平和の道は東洋平和から

2010年5月2日

 世界の中で、今大きなプレゼンスを示しているのは東洋、特に東アジアの中国、韓国、日本を中心とした国々である。

 文明は、アメリカを中心とした西洋の物質文明から太平洋圏を超えて、日本、韓国、中国へと移っている。かつては、東洋文明は停滞した文明として植民地主義の流れにあった西洋列強の草刈り場となって弱体化し、列強国家の弱肉強食の中でみるみる衰退の一途をたどった。

 インド、中国などは、その代表的な国家であり、インドはイギリスの統治の中であえぎ苦しんだことは歴史が示している。中国も同様に大帝国だった清は、国土はあれども、その中で植民地のような状態に陥り、しまいには阿片(アヘン)によって、内外共に崩壊の危機を迎えた。末期の清帝国が儒教文明の持つ官僚主義の腐敗によって、内部が自壊の時を刻んでいたことも間違いないが、それでも、国家が外部勢力によって崩壊する混乱と破壊の状態よりはましだった。

 しかし、清は列強の侵略的な資本主義によって経済が破壊され、不正と腐敗が極致に達して、破滅のカウントダウンを迎えた。国の主権が他国の恫喝や侵略によって左右されることほど恐ろしいことはない。東洋文明の雄であり、中華文明が東洋の国々に行ってきたことは、武力威圧の時代が過ぎれば、「冊封体制」と呼ばれるゆるやかな支配体制で終始したことは歴史の示す通りである。

 しかし、その清朝が西洋列強の要求に屈して、さまざまな利権を譲り渡したとき、その中華帝国を宗主としてきた国々は、同じような植民地化の脅威を受けたのだった。

 そのような東洋の諸国を見て、幕末期の日本は西洋の文明を取り入れることで、富国強兵の道をたどり、軍事力を強化することによって自主独立の道を歩んだ。中国の状態を見て西洋列強に対抗しなければ同じような植民地化の危機を迎えると怖れたのだった。それが倒幕とともに幕末志士の胸中にあったことであり、大政奉還の後に、新政府を樹立した日本は、錦の御旗であった鎖国に通じる「攘夷(じょうい)」政策を転換して一転して「開国」の道をたどった。

 この「尊皇攘夷」というスローガンを素朴に信じていた一部の志士たちは、欺かれたようなものだったが、それでも、大がかりな反乱や謀反を起こさなかったのも、目の前に大国・清の崩壊が見えていたからだろう。と同時に、江戸時代を形作ってきた儒教的な倫理観、道徳観念、東洋的な正義観念が武士道精神によって根付いていたために、まずはお上である国家の建て直しに協力するということになったのである。

 明治維新が西洋の革命によって多くの犠牲者を出して行われるのではなく、犠牲も少なく抑えられた「無血革命」に近いのは、こうした国民気質にまで浸透した儒教的精神の背景がなければたやすくは実現しなかっただろう。

 西洋列強に対抗し、国を復興させるために、天皇から庶民にいたるまで意識的あるいは無意識的に協力した結果が短期間の日本の近代国家が形成されたと言うべきだろう。そして、西洋の技術文明を取り入れて、国家体制を整え、軍事力を増強していった。その成果が短期間のうちで実現されたのを見て、東洋の諸国家は、同じ中華文明(儒教文明)にある日本が、その精神によって、西洋列強に圧迫された自分たちの国々を助けてくれるだろうと期待した。

 その東洋諸国家の中で唯一西洋列強と対等になった日本への期待は、同じ儒教圏の李朝末期の韓国でも変わらなかったことは、伊藤博文公を暗殺した安重根義士の絶筆となった「東洋平和論」でも明らかである。

 安重根義士は、西洋列強の侵略を一国の危機ではなく、東洋文明そのものの危機として捉え、日本がその暗雲を払ってくれる同胞と信じたのだ。そのあたりの心情の吐露は、「東洋平和論」に詳しい。より虚心にわれわれがこの「東洋平和論」を読めば、そこに感じるのは同じ東洋人がなぜ助け合うことができなかったのか、西洋文明の悪しき精神に汚染されてしまったのか、という嘆きであり、恨(ハン)である。

 安重根義士は、日本を敵視したのではなく、同じ儒教文明を分かち合った同胞として認識していたのだ。その意味で、安重根義士の本当の精神、その未完の東洋平和への願いを実現することことこそが日本と韓国の新しい友好関係、イコールパートナーしての未来を構築する基礎ではないかと思う。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】平和(Wikipediaより)


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