3.西郷隆盛『敬天愛人』に学ぶ

2010年6月2日

 幕末維新の時代に、今話題になっているNHK大河ドラマ「龍馬伝」の主人公・坂本龍馬とともに並び称される志士が、薩摩藩の西郷隆盛である。

 西郷隆盛は、明治維新の立役者であると同時に、その後、明治政府に反逆するかたちとなった西南戦争を起こすなど、その人生は功罪、毀誉褒貶(きよほうへん)が共にあり、評価するのが難しい人物である。

 しかし、西南戦争という反逆とも受け止められる戦争を起こしておきながら、戦火を終えてからそれほど時間がたたないうちに、上野公園には明治維新に果たしたその偉業をたたえる銅像が建てられるなど、普通はあり得ない名誉が回復されるという事態も生んでいる。

 歴史上、反逆者として葬られながら、そのマイナス点を超えて復活し、顕彰されることは西郷以外あり得ないのではないか。それだけ、西郷隆盛の人格が多くの人々の共感と敬愛を生んだからだろう。

 西郷については、坂本龍馬の的確な評価がある。龍馬は、西郷を「われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る」と評した。

 その人によって音が小さくも大きくも鳴る――底知れない所を西郷は持っていたということである。そのような西郷の功績の一つに、「江戸城無血開城」がある。血で血を争う政権交代、王朝交代の時代、すなわち革命の時代に、その首都が話し合いによって戦火を交えずに平和的な開城がなされたというのは奇跡である。

 フランス革命でパリで起こったのは血で血を洗う粛清であり、支配者だった王侯貴族の処刑である。これは中国の王朝交代でも変わらない。しかし、そうした報復の復讐や殺戮が江戸開城には起こらなかった。話し合いによって、その悲劇の事態が見事に回避された。それがなしえたのも、西郷隆盛と勝海舟という二人の巨人が出会い、私利私欲を超えて国や公のために生きるという精神を持っていたからだろう。

 特に、西郷隆盛は「敬天愛人」という信念を持ち、無私の精神で人生を貫いたことが注目される。西郷は、決して個人のエゴイズムや藩という限られた組織の利益には囚われず、日本民族という国家を超えた精神「敬天愛人」を常に心に抱いてきた。それが無益な血を流させる戦争を回避した「無血革命」に繋がり、また、自己の私欲のために政治的立場を利用しようとはしなかった点である。

 西郷は「子孫に美田を残さず」という言葉も残しているように、自分個人や家族のために財産を残さなかった。それは政治の私物化につながり、腐敗を呼ぶからである。国に奉公することは、すなわち国民を支配し、コントロールすることではなく、国民の幸福のために自分を殺す、為に生きるということを意味しているが、それを文字通り西郷は実践したということだろう。

 その西郷には、西南戦争に繋がった「征韓論」(「遣韓論」)という問題があることは知られている。これまでは、韓国を征服するという意味に受け取られ、日韓関係の負のイメージがつきまとっている。

 果たして、西郷隆盛は韓国を植民地化しようとする野望と欲望があったのか。戦争を新たに引き起こして、西洋列強のような物質中心主義のエゴイズムを西郷の提唱した「征韓論」(「遣韓論」)が持っていたのか。

 この点については、歴史学者などのさらなる研究を待ちたいが、西郷隆盛の信念の姿勢、その生き様をみると、人々を不幸にするような戦争を好んでいたとは思われない。平和を愛する人物だったと思われるのである。

 信念とした「敬天愛人」という言葉からも、東洋的な天の思想を中心として人々が相和して暮らす社会、平和な国家を願っていたことは間違いないだろう。なぜならば、西郷隆盛は敵さえも、愛する心を持っていたからである。

 幕末維新戦争では、幕府側に立って最後まで抵抗したのが譜代の親藩である酒井家の庄内藩だった。その庄内藩が降伏をしたとき、西郷は部下に指示して、その取り扱いを敵ではなく、共に公のために戦った武士として丁重に礼遇した。たとえ、主義主張が違って戦争をしても、それが終われば、同じ民族、同じ天をいただいた人間として平等であり、尊重するという「敬天愛人」の精神があったからだった。

 その西郷隆盛の精神「敬天愛人」こそ、今の時代にも必要であり、学ぶべき点ではないかと思う。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】西郷隆盛(Wikirediaより)
【参考リンク】西郷隆盛のホームページ『敬天愛人』


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