48.戦争と平和への長い道

2014年3月1日

 このほどロシアのソチ冬季五輪が華やかなフィナーレを迎えて、次回の韓国・平昌へバトンを渡して終わったことは記憶に新しい。さすがにロシアが大国の威信をかけて開催した冬季五輪だけあって、さまざまな面で、その趣向や仕掛け、規模が大がかりで華やかさをもっていた。

 その余韻がさめやらぬ途端、ウクライナのクリミア半島で、ロシア軍が進駐し、ウクライナの情勢がにわかに戦争の危機が高まった。平和の祭典であるオリンピックを主催したロシアが、その矛先をウクライナに向けたことは、そのオリンピックのもつ平和を願う精神を損なうものであることは明らかに疑うべくもない。せっかくオリンピックで世界各国が醸し出した平和なムード、地球家族時代の人類平和が、たやすく壊れてしまう幻想だったという感慨を覚えた人も少なくないだろう。

 全世界の人々がその肉体と精神の限界を超えて闘い、その頂点を極めようとしたのは、武器を棄てて互いに公正なルールで闘い、勝っても負けても、その精神をたたえ合うというためのものではなかったのか。異文化をもった国家同士が相互交流し、理解を深めて平和な友好関係を結ぶためではなかったのか、という思いをもつのである。

 もちろん、スポーツも勝負であるかぎり、勝者と敗者に分かれることは避けられない。だが、武器を取って闘い、殺し合う戦争と違って、スポーツの戦いは、勝っても負けても、死ぬことはない。精神と肉体の極限をかけて戦うために、勝負が終われば敵味方ではなく、同じ競技で死力を尽くした同士としてたたえ合う。それが近代五輪の精神ではなかったのか。その意味で、ソチ冬季五輪の直後に起こったウクライナのクリミア半島の紛争は、衝撃的だった。

 オリンピックは平和の祭典という近代五輪の精神が、形骸化している面があることを示したからである。その意味で、現在のオリンピックは個人がその能力の限界に挑戦する競技である以上に、国家の盛大な国威発揚の場として利用されるようになってきた面がある。

 もちろん、インフラ整備やその他において巨額な費用を要するものとなっているために、国が全面的に力を投入しなければならないのは言うまでもない。国を無視してオリンピックは開催できないのである。また、オリンピック開催による経済効果が期待されることもある。五輪が巨額な投資の対象として捉えられる面があることも確かである。経済効果というのは、国家的なイベントであるかぎり、それをまったく無視することはできない。巨大な施設の建設というインフラ整備による公共事業は、雇用問題の一時的な解決にもなり、また、観光開発にもなり、世界からの旅行客が来ることで落としていく金も膨大になっている。テレビ放映の広告収入も無視できない。

 世界のグローバル化によって、オリンピックも観光事業を呼び込む巨大なイベント化したと言えるかもしれない。確かにそのオリンピック効果を考える時に、そうした経済的与件も忘れるわけにはいかない。だが、それ以上に重要な問題をわれわれは思い出す必要がある。

 近代のオリンピックは、世界の国々が規模の大小にかかわらず、持てる国も貧しい国もなく、人種の違いや宗教の違いも超えて、マジョリティーもマイノリティーも関係なく等しく、同じスタートラインに立って公正に闘うという平和の精神である。スポーツの祭典であるオリンピックはただの国威発揚の場ではなく、共生共栄の精神を謳う人類共通の平和の祭典であることを、改めて考えなければならない。

 その意味で、今年の九月から韓国・仁川で開催されるアジア競技大会、四年後の平昌冬季五輪、その二年後に行われる夏季の東京オリンピックが、真の意味での平和の祭典となり平和世界への実現への架け橋になることを望む。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 ソチオリンピック(Wikipedia)
  平昌オリンピック(Wikipedia)
  ロシア・ウクライナガス紛争(Wikipedia)

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