19.辛亥革命から100年

2011年10月4日

孫文

 2011年10月10日は、中国で1911年に起こった「辛亥革命」から100年目に当たる記念の日であり、この革命の中心人物である孫文(孫中山)をめぐるシンポジウムや書籍、評伝などで取り上げられている。その節目に当たる今、改めて、孫文という存在とこの革命の今日的意義を考えてみたい。

 「辛亥革命」が目指したものは、その思想的主導者である孫文の「三民主義」 に現れているように、「民族主義」「民権主義」「民生主義」であり、孫文はこのスローガンを掲げて革命運動を唱導した。その主張の軸が「民」が中心となっているように、孫文が目指したのは、近代的な国民国家、主権在民の近代国家像である。このうち、「民族主義」は、多民族国家であった中国の中でも、漢民族を中心としたナショナリズムであり、当時、北方民族が打ち立てた清王朝の打倒を目指した。

 中国の歴史では、漢族が建てた王朝というのは、漢や明など少数であり、むしろ騎馬民族系の唐や宋など異民族が中国に進出して、そこで王朝を建国している例が多い。孫文が打倒しようとしたのも、異民族の支配から漢族を解放する意味あいがあった。

 その意味では、孫文の「民族主義」は漢族中心主義であり、ある面では現在の漢族中心主義の中国共産主義政府に受け継がれた思想でもある。しかし、この 「民族主義」が多民族国家であった中国の状況とは合わない漢族主義であったために、孫文は清王朝の崩壊とともに、多民族主義の「五族共和」とその目標を柔軟に変更している。

 孫文が考えていたのは、中国の歴史で繰り返されてきた新しい王朝を建てる従来の王朝交代的な易姓革命ではなかったことに注目したい。その意味では、この 「民族主義」は偏狭なイデオロギーではなく当面の清打倒のための手段であったとみることもできるだろう。

 その主張の底流に流れていたのは、西洋列強の圧迫などで植民地化の危機を迎えていたアジア同胞の解放であり、一国主義を超えたアジア共同体的構想とも言うべきものであったのである。

 現在、孫文自体、共産中国でも民主主義の台湾でも「国父」であるということで両国から深く尊敬されている。それは両国にとって、孫文は近代中国の生みの親というべき存在だからである。孫文の辛亥革命を基点として、共産中国が大陸に生まれ、民主主義の台湾が出発した。孫文の思想に立ち返ることによって、この両国の平和的な和解の道も将来あるかもしれない。

 それを実現する道は武力やイデオロギーではなく、海峡を挟んで分断された漢族同士の恩讐を超えた和解と同胞愛かもしれない。孫文が両国の「国父」であるだけではなく、その妻の宋三姉妹が両国に深く関わっていることもある。孫文亡き後、その妻・宋慶齢は中国の建国に尽力し、蒋介石の妻の宋美齢も台湾の国母となり、そして、アメリカに渡った長女の宋靄齢も側面から祖国の解放を支援した。この宋三姉妹の血の絆も忘れてはならない。

 それは韓民族の同胞同士が対峙している分断国家の韓半島(朝鮮半島)が抱えている問題にも通じるものがある。南北平和統一も、両者の思想を抱えた日本の在日同胞同士の和解と融和がそのカギを握っているからだ。

 いずれにしても、孫文が、このような近代的な市民革命を抱くようになったのは、日本の幕末から明治維新に至る革命がモデルになっていると言われている。封建主義の旧態依然の体制から、アジアの中でいち早く、西洋の近代化を取り入れ、新しい近代国家像をつくりあげた日本の成功に学ぶという意識があった。

 現に、孫文はたびたび日本に亡命や資金調達などのために来日し、その協力を仰いでいる。その知己の中には、アジア主義の玄洋社の頭山満などもいて、孫文が中国一国だけの革命だけではなく、西洋列強の脅威に脅かされていたアジアを中心としたスケールで平和と繁栄を考えていたことがうかがわれる。

 そこから浮かび上がってくる孫文のアジア主義の構想は、東洋の精神文明で西洋列強の物質文明に対抗し、平和な世界を生み出すというものであった。しかし、孫文は、中国の近代化も目にすることなく、自己の夢を実現する時間も残されずに、志半ばで病に倒れた。

「革命いまだ成らず」がその最後のメッセージである。その孫文の真の理想を実現するのは、アジアが共に繁栄の道を歩む共生共栄共義の精神であり、世界平和への架け橋になる思想である。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 孫文(Wikipediaより)
  辛亥革命100周年国際シンポジウム(孫文研究会)

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