53.戦争と平和への道

2014年8月1日

 8月は、戦争と平和という悲劇的な記憶をわれわれの心に深く刻まなければならない月である。日本における「終戦記念日」、韓国においては日本の植民地から解放された「光復節」(解放記念日)を迎える月であり、改めてこの戦争について考え、そして、そこから平和な未来への教訓を引き出すべき時期である。

 われわれが肝に銘じなければならないのは、どんな悲劇であっても、時の経過とともに少しずつ風化していくという厳然たる事実である。時がたつにつれてすべてのものは、痛みも悲しみも、記憶も次第に薄れてしまい、決して忘れられない記憶だけを残して忘れ去られてしまう。

 当事者自身が亡くなることによって、物質的にも消えていく面もある。だが、その反面、痛みと苦悩・悲しみをも忘れてしまうことで、手ひどい教訓であった記憶の痛みを忘れ、また同じような道・戦争などの悲劇の道を たどる可能性も否定できない。

 すなわち、戦争の被害を恨みに転嫁し、必ずその恨みを晴らそうと心中に憎悪を増幅させて、互いに滅ぼしあうまで殺し合いや戦争を行っていたかも しれない。戦争の原因がどうであれ、加害者であれ被害者であれ、親族を失う被害を受けた人々は、自分の敵を討ちたいという復讐心はなかなか無くならないからである。

 こうなってしまえば、戦争は泥沼化し、いつまでたっても平和も戦争の終わりも見えてこない。それは中東におけるイスラエルとパレスチナの紛争がそうであり、アフリカなどにみられる多くの部族間抗争もそうであり、そのような憎悪の連鎖が戦争の終焉(えん)と平和を阻んでいる一因になっていることは確かである。

 時の経過は、そう考えると、人類が存続し続けるための恩恵であると同時に悲劇でもあるのだ。そのような無限の連鎖の憎悪の悲劇を食い止めるために、日本の江戸時代には、敵討ちが法制的に許され、奨励もされていた。

 親を殺された子が敵を討つことは、むしろ親孝行や義理人情からも推奨されていたが、それでも、その復讐を行うに当たっては一定のルールが存在し た。それが復讐に復讐を重ねることの禁止である。敵討ちをした者を討たれた者の子が仕返しをすれば、その復讐は無限の憎悪の連鎖を生み、きりがなく なってしまうからである。

 どこかで、その憎悪の連鎖を終わらせなければならない。それが江戸時代における敵討ちの法制化である。これは残酷な制度に見えるが、一面、社会を安定させる制度でもある。もちろん、そのような心の痛みや恨みの思いが消えて無くなるわけではない。だが、何らかの歯止めをしなければ、永遠に仇敵同士の関係が変わらず、いつそれが戦争へと転化しかねない火種になりかねないからである。

 戦争と平和は紙一重である。世界を見渡せば、現時点で多くの紛争や問題点が横たわっていることを認めざるを得ない。その意味では、現在ほど世界平和が危うい時はなく、それを防ぐための軍事力強化なども各国で推進されている。武器をもてば行使したくなる、というのは単純な見方かもしれないが、その恐れをまったく払拭もできないだろう。

 だが、武器も全部捨て、丸腰になって手を挙げて平和を願えば平和が呪文のごとくやってくるわけではないことも間違いない。だからこそ、今われわれは、改めて戦争と平和について考えなければならないのである。

 平和を望む者ではなく、平和をみずから作り出すものとして、考え、行動しなければならないのである。平和の使徒として歩まなければならない。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 平和 (Wikipedia)
  戦争 (Wikipedia)

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