25.復旧復興の精神

2012年4月1日

 昨年の3月11日に起こった東日本大震災から一年がたった。

 この時期に合わせて新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどのマスメディアでは、震災の特集をした。知られざる話や被災者のその後、ボランティア活動、遅々と進まない保障問題など、それぞれ伝えられている。あっという間の一年だが、それでも、まだ福島原発の放射能の問題、津波によって破壊された瓦礫(がれき)の処理、消失した村や町の再建など、まだ解決されていない課題が山積していることを改めて再認識させられる。

 例えば、瓦礫の処理は、被災地の県だけでは処理できないが、それを引き受けようとする地域では、住民の反対などもあって進まない。放射能の問題があるからだが、放射能が検査で基準値以下であると知らされても、拒絶反応がなかなか消えないのが現状である。まるで、昔の疫病を忌み嫌うような状況だが、放射能という問題がそれだけデリケートな問題ということもあるだろう。しかし、そのかたくなとも言える拒否反応は、冷静に考えると、やはり異常なものを感じさせるものがある。

 被災地のみならず、それとは関係のない遠隔地でも流言飛語が飛び交い、水や食糧の買い占めが起きたことは記憶に新しい。実際の被害を受けた被災者ではなく、それとは無関係な人がそうした買い占め行動を起こしたことにより、被災地への物資が不足し、間接的な二次災害を引き起こしたと言えるだろう。このパニックの心理こそが、風評被害になり、福島県の野菜や米のみならず、近県の野菜なども売れなくなった。汚染された水が流れた海の魚も同様である。これは過度の群集心理といえるだろう。かつてオイルショックの時に、トイレットペーパーの買い占めがあったのと同じである。それが行きすぎると、暴動や流言飛語による事件を引き起こすことになる可能性もある。

 それは、関東大震災の時の流言飛語によって、多くの無辜(むこ)の在日コリアン、中国人が虐殺された事件をみればいい。この時、一部の心ある日本人がいて助けた例もあったが、多くは群集心理によって暴徒と化したことを忘れてはならない。津波や原発事故の被災地の瓦礫を闇雲に理性も論理もなく、ただ拒否するというのは、こうした盲目な群集心理に走る危険性を持っていると言えよう。

 もちろん、将来の危機のために備え、家族を守るための備蓄や健康を守るための意識は重要であることは言うまでもない。だが、何の根拠もなく、放射能の検出がされていない瓦礫の処理を拒否したり、風評被害に遭った野菜や魚などを無意識的な拒否反応をすることは、これは同じ国に住む人間として、どこか異常であるとしか言いようがない。

 震災後、日本では、それまで失われていたように見えていた人と人のつながりを大切にする「絆」という言葉が使われるようになった。「絆」は同じ国に住む人間として、同じ痛みを持ち、同じ喜びを共有するという精神というところから来ている。被災地の痛みを思えば、流言飛語に躍らされたり、風評に惑わされたりしてはならないはずである。共に同じ国、同じ世界、同じ地球に住む仲間として、互いに助け合う精神を持たなければ世界平和が成就できるはずもない。

 それは多文化共生にも通じる精神である。同じ地球の仲間として、マイノリティーもマジョリティーも共に分け隔て無く助け合って、未来永劫に生きていく。実際に海外の激励・支援も全く切れなく日本ガンバレ!と寄せられている。大震災からの「復旧・復興の精神」は、そのような「絆」によって築かれなければ、やがて同じ失敗を繰り返すことにもなるかもしれない。

 それが「絆」の真の意味ではないだろうか。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)


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