34.世界平和への道のり

2013年1月1日

 新年を迎えるたびに誰しも思うことは、この一年が無事であること、要するに無病息災、家内安全などである。その祈願を神仏の前でしながら、一年を出発する。

 誰も、一年の初めに不幸を願う人はいない。健康であれば、個人の食生活や適度な運動など病気にならないように、心身を鍛え健康が維持できるような生活をする必要がある。個人の心がけや努力によってそれは十分可能な目標である。

 だが、幸福な一年の祈願が成就されるかどうかは、個人的な努力や自分だけでは解決できないものも少なからずある。たとえば、事故やケガ、リストラ、不景気、国の繁栄に関わる不慮の事態の出現(天変地異や戦争の勃発など)は個人ではコントロールできない要素になる。

 そのような問題が起こったときは、個人の努力を超えた事態に茫然とせざるをえないことは2011年に起こった未曾有の大災害、3・11東北大震災によって経験している。自然の膨大な災害はいつ起こるか予測できないことがほとんどである。

 また、戦争なども個人の範囲を超えた問題であり、世界情勢の変動、日本を取り巻く周囲の環境や政治状況の変化によって、好むと好まざるに関わらず、戦争に巻き込まれてしまうという事態もあり得ないわけではない。特に昨今の東アジア情勢は、中国や北朝鮮、韓国などとの国境や領土問題の緊張した関係によって流動的な側面を見せている。2012年は、日・韓・米・中・露のトップが変わった事が特筆される。

 「一寸先は闇」ということわざもある。未来のことを見通すことはなかなか難しい。その点では、個人の努力は空しいと思われてしまうかもしれない。が、さまざまな事象を変えることはできなくても、個人の努力しうることは案外少なくない。それは社会や国家というものを構成しているのが、あくまでも人間だからである。機械やロボットが社会や国家を構成しているのではない。

 どのような組織であっても、その基本構成単位は人間であり、その個人としての人間が家庭を営み、氏族を構成し、郷土や地域を組織し、それが人体の血管のように全体を支え、国家というものを構成している。国家は、全体を見れば個人的な顔の見えない抽象的な概念のように見えるが、その構成単位としての人間は同じ地球に住む人類同胞である。

 その人類同胞がなかなかわかり合えないと見えるのは、その国家同士の交流が政治的なものが主であっても、イデオロギーや経済的利害関係、すなわち国益の衝突によって和合と対立を繰り返すからである。その上、抽象的なイデオロギーや思想、宗教、文化の違いがこの問題に重なり、複雑に絡まり、相互理解の道を阻害しているといってもいいだろう。

 その意味では、こうした硬直した関係を緩和し、同じ人類同胞という意識を共有し、共に限られた資源と環境の中にあって、平和に暮らすためには、もう一度個人という次元に立ち返り、そこから再び国家を考えなければならないのではないか。

 要するに、平和な世界を実現するためには、相互理解がスムーズに進むような交流を国家同士が持続的に行うことができれば、ある程度、その理想を実現する道を切り開いていくことが必要なのではないか。

 そのためには、国家間の交流とともに、それ以上に、国民同士の交流、スポーツや文化芸術などを通して、すなわち個人が互いの国を往来しながら理解を深めていくこと。そのような交流が深化し、互いに知人友人の関係になり、また国際結婚のように親戚同士になれば、国家関係は緊張しないだけではなく、互いに共生共栄共義の道を歩んでいくことになっていくのは間違いない。

 また、昨年は在日同胞が本国の投票権が初めて付与され、国会議員や大統領選挙に参加した事が記憶される。今年は、世界平和の道筋の第一歩を刻む年にしたいものである。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)


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