44.平和のために何をなすか

2013年11月1日

 70億の人類の世界には、多くの国と民族が存在するが、そのどの国も願っていることは「平和」であることは間違いない。最初から、「戦争」や「争い」を願う国はない。しかし、互いに「平和」を求めながら、その平和を掲げて「戦争」という悲劇に進んでしまうのが現実である。万人が願い、世界の国々が願いながら「平和」を実現できないのはなぜだろうか。おそらく、それは人類歴史の謎であり、また、人類の抱えた問題の根が深いことを示している。

 多くの哲人がそのことを悩み、苦悩し、課題として考察を深めてきたことは、古代のギリシアの哲人、プラトンが「国家論」において論じたことを考えればよくわかる。どのような国家を理想として造り上げれば、「平和」な国が成就できるのか。この問題を深めていけば、必ず一国の問題では終わらず、人間の存在論、社会論や経済論など、さまざまな問題を考察しなければならなくなる。

 その上、一国だけの政治思想を追求し、理想的な政治家の出現を願っても、それだけでは平和を生み出すことができない。なぜなら、戦争というものは、基本的に国家間に起こる問題であり、その国家同士が互いに歴史や人種、文化が異なるために、一国だけでは解決できない問題が横たわっているからである。そこにはグローバリズムによる国家を超えた価値観の共有、理解、友愛がなければ、国の間にある溝に平和の橋を架けることができないのである。

 言語の違い、宗教・思想の違い、習俗の違い、人種の違い、文化の違い――これらの異なる価値観を互いに歩み寄り、話し合い、交流することによって埋めていかなければ、平和を実現することが難しい。プラトンが考えた哲人が国を運営する理想的な政治にしても、それによって論じたように国がナショナル・ゴールを目指して自動的に向かっていくわけではない。しばしば、理想は現実の前で言葉だけのものになってしまうことが多い。

 理想論は得てして、現実的なさまざまな問題を机上で解決しうるものとして考えるために非現実的になりやすいのである。その結果、プラトンの理想、実験は、一種のユートピア思想と同じように、やがて破綻してしまうのである。このことは平和な世界を考えるに当たっても教訓となるものを含んでいる。

 もちろん、それは理想をもつこと自体が悪いわけではない。理想を実現していくためには、そこに現実に生きている人間の存在論的な考察がなければならないということである。いわば、理想だけを追求していくと、そこには、人間という存在の欲望やねたみ、苦悩、怨みなど、それこそ生きた人間の精神の深い闇の問題が抜け落ちてしまうのである。

 そのように、人間が人間を理解することの難しさは、個人の問題を考えてもわかるといっていい。偉大な聖人や教育者や哲学者、政治家であっても、自分を自制できても、その妻や子供、家族までも、自分と同じような境地、思想に導くのはかなり困難であることは、多くの事例が示している。むしろ家族や親族を説得できないために、そこにさまざまな争いが起こり、財産や愛憎を巡って親族殺人やその他の事件が起こってくる場合が少なくない。

 自分の家族・親族とともに争いもなく、平和に暮らすことが難しいのに、それが拡大された国家間の平和を生み出すことはもっと困難であるのは言うまでもないだろう。その意味で、平和を生み出すのは、民族と国家を超えた国家間における対話、組織である国際連合のような存在が絶対必要であると同時に、そこに国家のエゴを代表した政治家だけではなく、そうした枠組みを超えて人類の未来の平和に向かって人間のエゴや悪を超えることのできる超宗教超国家的な指導者の協力が必要なのである。

 これらの指導者の多くの議論と交流を通して、政治を超えた次元で和合し、それを受けて政治家が実現に向かって国家間の諸問題を調整していく。その意味で、宗教指導者と政治家が国連で国際的な組織や会議を通じて協力し、互いの違いを理解して自由と平和と統一と幸福の世界を実現していく実に長い時間をかけた努力や交流が必要なのである。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 プラトン (Wikipedia)

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