9.平和は多民族共生共栄から

2010年12月1日

 世界各地で起こっている紛争や戦争は、様々な原因で発生している。歴史的なものもあれば、思想・政治的なものもあり、もっと単純に経済的な格差、貧困による対立もある。複雑に考えれば複雑な様相が見えてくるし、単純に図式化すれば、それもそれなりに要約できるといっていい。

 例えば、アフリカの部族間抗争・人種対立、中東におけるユダヤ教・キリスト教とイスラム教の紛争に表れた宗教対立が原因のもの、冷戦構造を引きずった韓半島の南北における政治的なイデオロギー対立による対峙など、図式的に描けば、その例をいくつか挙げることができる。

 だが、戦争の多くは、このような単純化されるようなものではなく、数多くの要因が複雑に入り組み、構成要素となって発生していると見た方がいいだろう。一見単純に見える背景には、歴史的な経緯や政治・宗教なども絡み合っているのである。

 人は様々なもののために対立する。それを単純に分析するのは難しい。が、しかし、よくよく考えてみれば、戦争の背景には、その衝動を引き起こしている人間自身が持っている根本的な原因、恨の情念といったものが見えてくるのも確かなのである。

 それが富の不公平性に対する恨みであり、戦争の底流には、富める者と貧しい者の格差、その不平等感が情念として渦巻いているのである。そして、その不平等感が引き金となって、思想対立や政治対立、宗教対立などに発展していく。その延長上に武力を行使する戦争が勃発する。

 『戦争論』で有名なプロイセンの将軍・クラウゼヴィッツは、戦争をそれまでの「戦い」という見方を訂正し、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という独自の戦争哲学を提示した。要するに、人は争いや戦争を好むという性格から戦争を行うのではなく、むしろ戦争を通して富の獲得や領土の拡大を目的としているという指摘である。だから、戦うことなく、政治だけで、利益が得られる結果が出れば、武器で戦う必要はないというのである。

 戦争は最後の手段であり、無ければない方がいい。戦争は加害者と被害者、両方に犠牲を強いるし、それを回復するにはかなり時間がかかり、全体的にみれば損得勘定からしてもベストではない。政治によって平和的に解決できれば、一番ベストなのである。戦争は拙劣な手段であるといっていい。

 政治とは、元々の意味は宗教的な神に捧げるまつりごとであり、神の祝福によって生きる糧である稲やその他の産物が豊かに与えられるように祈ったことから来ている。稲が豊作になるかどうかは、自然天候に左右された。それで、それを支配する神に実りを祈願する行為が政治だった。政治の「政」を「まつりごと」と読むのはそのためである。それが転化して国民や人民の幸福をもたらす行為を意味するようになった。

 政治が宗教と離れた福利厚生、人民の幸福を保証する制度や政策などのことを意味する近代的な概念は、元々の概念からだいぶ遠のいてしまったことは間違いない。だから、政治によって、他国の富、他民族の労働力、土地や財物が無償で手に入れることができれば、戦争という手段などをとって多大な犠牲を払う必要はない。

 だが、そうした平和な事例がほとんどなかったのは、人類歴史を振り返ってみれば一目瞭然である。人類の歴史は、善悪闘争史の方が多かった事を思い返せばいいだろう。富める者は、その富を奪われまいと、防衛を固くし、反撃する。そこで、攻撃兵器の開発、武器の開発などに力を注ぎ、それらによって相手を圧倒しようとする。戦争はその連続だった。

 そして戦争を起こすことができたのは、相手が自分とは違う考えを持ち、種族や民族の差異、宗教の違いなどがあると考えたからである。相手が自分の家族や親族のように親しい間柄であったり、交流が密にあった友好的な関係を保っていたとすれば、そう簡単に戦争をすることができるはずがない。

 その意味で、知人・友人・同じ地球に住む人間同士であり、そして、かけがえのない家族であるという多民族共生社会が実現すれば、この対立と戦争の原因の多くが解消されることは間違いない。家族であれば、貧しい家族に手を伸ばし互いに富を分かち合うという考えにもなっていく。平和は、そのような技術の平準化と多民族共生共栄社会によって生まれることを改めて認識しなければならない。それが自由と平和と統一と幸福の世界である。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 戦争論(Wikipediaより)    
【参考資料1】 民間人の犠牲が増加の一途をたどっている事実
【参考資料2】 増大する戦争、内戦、紛争について
【参考資料3】 南北平和統一のために克服すべき課題とは

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