12.未来の歴史に評価を待つ

2011年3月1日

 ある人物を見た場合、現在の評価は高いが、時代を経るにしたがい、その評価が極端に下がる場合がある。逆に、現時点では悪評ばかりだったが、後にその先駆的な業績が後世高く評価 されることもある。また、時代の荒波を受けても、まったく評価が変わらず、むしろ時代を超えるにしたがい、その行為が色あせずむしろもっと燦然と光り輝くこともある。
 

乃木希典将軍

 日露戦争で、二〇三高地(旅順攻囲戦)でロシア軍と対峙し、多大な犠牲を出しながらも、勝利した乃木希典将軍が、降伏した敵将兵を手厚くもてなした「水師営の会見」などの行為はこの例になるかもしれない。

 まず敵のロシア兵の戦死者を敬意をもって葬い、その後、自軍の日本兵の戦死者を手厚く埋葬した。乃木将軍は、この戦争で自分の子息を犠牲にしても、それを恨みに思って降伏した敵に報復することはなかったのである。

 その意味では、乃木将軍の精神には、強きをくじき、弱きを助けるという武士道精神が息づいていた。乃木将軍には毀誉褒貶(きよほうへん=さまざまな評判)があるけれども、その精神には私欲や名誉欲などはまったくなかったといえよう。

 今、日本に求められているのは、自己の権利を主張ばかりする個人主義ではなく、他のために自分の犠牲をいとわない公的精神ではなかろうか。大久保利通と木戸孝允とともに「維新の三傑」と呼ばれた西郷隆盛も、乃木将軍と同じような行為が知られている。

 幕末維新の戦いの中で、西郷の倒幕軍に最後まで抵抗したのが幕府側の精兵を擁した庄内藩だった。庄内藩は、明治維新の前夜、三田の薩摩屋敷を焼き払い、多くの死傷者を出し、その上、最後の最後まで抗戦した。その点においては、もっとも憎むべき敵であった。その恨みの復讐に、庄内藩の降伏した人々を侮辱し、人間扱いをしなくても不思議ではない。事実、そうし た復讐心によって、悲劇的な扱いを受けた幕藩は、少なくない。

 京都守護職として幕末の志士を新撰組とともに弾圧した福島県の会津藩などは、会津若松城が落城し降伏した後にも、その死骸を葬ることさえ許されなかったという非道な扱いを受けたほどである。

 その憎むべき庄内藩に対して、西郷は慈愛を持った寛大な処理をし、同じ武士としての待遇で丁重に扱った。戦っていた時は敵であっても、いったん鉾(ほこ)を納めれば、同じ同胞であるという「愛人」の精神によって遇したのである。これに感激した庄内藩の藩主が家老を伴い七十数名が、政府の要職を去って鹿児島に引退していた西郷を訪れて親しく教えを受けた。

 庄内藩士は、西郷の薫陶を受け、その精神を学ぶために薩摩に留学するようになったのである。その折々に西郷を語った言葉の片言をまとめたのが西郷南洲翁遺訓だった。薩摩人ではなく、西郷の著作や言葉が残ったのも、敵であった旧庄内藩士たちの努力のたまものだったのである。

 その根底にあったのが「敬天愛人」という宗教心を持った精神である。「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」(西郷南洲翁遺訓)。

 弱き者をいたわり、みずからの利欲を求めず、共に生きようとした精神。これはまさに、マジョリティーがマイノリティーに手をさしのべる精神にも通じるものがある。ある意味で、日本の国家に共に和合して住む多文化共生の原型が西郷の精神にはあるといっていい。

 西郷の精神が後世に脈々と伝えられたのも、その精神が現在の利害ではなく、未来の理想像を追い、その歴史的な評価を待ったからではないかと思うのである。その意味では、歴史は時代の持っていた虚飾を剥ぎ取り、その本質をあらわにする恐るべき審判者と言えるかもしれない。

 翻って、現在の社会や政治状況をみるとき、あまりにもその場限りの政策や議論や主張が多いのではないかと感じる。未来の歴史をつくるという長期的な展望を持ち、後世に評価を待つという歴史観を持った人物が現れることを望む。万世の為に。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 乃木希典(Wikipediaより)    
【参考リンク】 西郷南洲翁遺訓(Wikipediaより)    

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