78.パラリンピックこそ平和の祭典

2016年9月1日

 このほど行われたスポーツの祭典リオデジャネイロ・オリンピックは、8月5日から21日までブラジルで開催され、世界から約200ヵ国が参加し た。このように4年ごとに行われるオリンピックが31回目を迎えたということは、その開催中に平和な時代ばかりではなく、戦争を挟んだりと様々な事件もあっとしても、無事に継続していることは素直に喜びたい。

 発祥は、古代ギリシャのオリンピアで開催された祭典がルーツ。古代ギリシャにおいては、スポーツの優劣・勝敗を競うという面とともに、それ以上 にオリンポスの神々に捧げる平和な宗教儀式でもあった。当時、ギリシャは各都市国家(アテネ・スパルタなど)が独立国家として、覇権を争い、武器によって戦っていたが、この古代オリンピックの開催期 間だけは戦争を停止したことでも知られている。

 その後、途絶えていたその古代オリンピックを復興させたのがフランス生まれのクーベルタン男爵である。クーベルタンは、古代オリンピックに感動し、それを近代オリンピックに再生させた立役者であり、戦争で戦うのではなく、スポーツで闘うことで、 世界平和への実現を願った。以降、近代オリンピックは継承されてきたが、クーベルタン男爵が願った世界平和の夢はまだ実現していない。

 とはいえ、オリンピック開催によって、世界中の国家や民族がスポーツを通して、互いに平和に闘うという精神は、多くの対立や紛争の火種を少なく していったことは間違いない。ただ、近年、オリンピックは「参加することに意義がある」という初期の設立精神を失いつつあり、メダルを多く獲得することで国家の威信や国威発揚の手段・道具に化している面があることも確かである。個人や国家ぐるみの不正なドーピングなどは、その象徴的な例である。

 その上、名誉を重んじるはずのオリンピックが、商業主義や国家の過大な見返りや報償などを選手に与えることによって、巨大な利権や欲望が渦巻く ショー
やスポーツ政治の場に陥ってしまったことは認めなければならない。本来のアマチュア精神はどこに行ってしまったのか。そう考えるとき、現在のオリンピックは、多くの難題を抱えているために、軌道修正が難しくなっている。

 その意味で、オリンピックに引き続いて開催される障害者スポーツの祭典であるパラリンピックは、人類の平和、人間愛、限界への挑戦、生きるとい うこと
の素晴らしさを本来のスポーツ精神を体現している大会ということができよう。そして、この障害者のスポーツの祭典は、まさしく世界の国々を平和と融和に
導く可能性を秘めた平和の祭典でもある。

 というのは、パラリンピックには肢体不自由の身体障害者(視覚障害を含む)だけで参加できるものではなく、そこには多くの周囲の健常者や器具を 提供す
る企業などが参加しサポートすることで成立している。弱者と強者が共に参加し、そこで勝敗を競う。マイノリティーとマジョリティーが助け合い、またプライドをもって障害者が限界に挑戦する。これこそまさに、現在のオリンピックでは失われつつある精神ではなかろうか。

 その意味で、9月7日から12日間の予定で行われるパラリンピック・リオデジャネイロ大会の成功を心より祈願したい。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 パラリンピック

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