74.古代の日韓・韓日交流に学ぶ

2016年5月1日

 今年は、日本に渡来した高句麗人が武蔵国に高麗郡(こまぐん)に移り住んだ716年(霊亀二年)から数えて1300年目に当たる節目の年である。ゆかりの地、埼玉県の各地では、さまざまなイベントが行われ、古代の半島と島嶼の交流の友好関係を偲び、今後の関係改善へのきっかけになること が願われている。

 目につくものだけでも、「高麗郡建郡1300年パネル展開催(川越市役所)」「高麗郡建郡1300年記念祭(記念式典・アトラクション)」 「ミュージカル つむぐこまひと」「第4回日韓伝統武芸人交流会2016」などのイベントが予定されている。

 古代の東アジア情勢は、現在のような明確な国境線が引かれていたわけでもなく、人々は海という自然の境界線はあったものの、船などで島伝いに、 あるいは嵐などの脅威に襲われながら、両国を往復した。そこには、貿易などの経済的交流もあり、あるいは朝鮮半島から日本に移民した人々もおり、また逆に日本から朝鮮半島へ移り住んだ人々もいたはず である。

 交流は、一方的なものではなく、双方向的なものだとすれば、古代の交流は互いにゆるやかな時間を経過しながら、人種が入り交じり、あるいは時には自然条件や国家の興亡によって減少したり衰退した時期もあっただろう。日本列島は、そうしたプレ国際交流のようなものがあって、徐々に発展したということは間違いない。

 ただ、古代の日韓・韓日関係を考えるときは、縄文時代から弥生時代への移行期の前後に、渡来人の突然の流入によって人口が急激かつ爆発的に増加 したことは確かである。現在では、縄文時代にも稲作農耕があったことが指摘されているが、急激な人口の増加は弥生時代に集中した渡来人による稲作農耕の安定的な収穫が背景にあったのである。

 豊かになった食糧事情が村の発展、都市の出現や国家形成への重要なバックボーンになったのである。朝鮮半島からの人々の渡来は、農作だけではないさまざまな分野で恩恵をもたらしたことも間違いないだろう。ただし、その恩恵も、それを消化するだけの技術的・文化的な包容力が基礎になけなければ発揮できなかったことも確かである。

 日本における一万年にわたる縄文時代の平和な時代の技術力や文化(三内丸山遺跡、縄文土器など)が、弥生時代の発展へ結びつく潜在的なエネル ギーになったことを改めて知らなければならない。また、縄文時代の自然との共生的な思想が、渡来人たちとの戦闘などの軋轢(あつれき)を和らげ、その移行は従来考えられやすい戦争による征服ではなく、むしろ互いに歩み寄る平和的な交流が多かったのではないか。

 稲作を軸として、互いに協力し、村を形成し、そして、国際結婚をすることで、家族的な集団を形成していった。そのような意味において、「高麗郡建郡千三百年」という節目の年のイベントは、改めて平和な日韓・韓日の友好関係の原点として注目したい。

 だが、正直に言って、この古代の国際交流の原点のイベントは、平安建都千二百年(1994年)に比べて、まだ全国的に周知されたものではないと いう印象がある。国際化時代の日本にとって、この「高麗郡建郡千三百年」は、今後の未来における日韓・韓日関係を考える上でも、もっと多くの人に知られなかればならない。

 改めて一衣帯水の国同士として、未来志向の友好関係を築いていくきっかけにもなることを祈りたい。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 高麗郡建郡1300年記念事業

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