11.敵に塩を送るということ

2011年2月3日

 最近、戦国武将に憧れる「歴女」がブームになっている。「歴女」とは若い女性たちが、テレビアニメやゲームの戦国シュミレーションにはまって歴史が好きな女性たちを指す。ただ、その興味範囲は、美形の戦国武将の生き様にアイドルのような心理で追っかけをしているといった方がいい。

 もちろん、美形の戦国武将、直江兼続や伊達政宗などに関心を持ち、そのゆかりの地を訪ねたり、周辺の歴史的知識を学んだり、グッズなどを集めたり、ゴスプレに熱中したりと、それぞれ関心の持ち方は若干の差異がある。

 こうしたブームをどう考えるか、平和ボケした風潮と捉えるかどうかは人によって違う。中には戦国武将のような殺戮(さつりく)や残酷な殺し合いを感じて眉をひそめる人もいるに違いない。

 なぜ、こうした戦国武将ブームが来ているのか。一概には言えないが、その背景には、平和な飽食の時代を象徴する「草食系」などと言われる骨のある若い男性がいなくなった事情もある。頼りなくなった若い男性よりも、過去の歴史的人物の決断力に富んだ「肉食系」的な生き方に惹かれるという心理である。その心理もわからないではない。

 しかし、戦国時代というと、弱肉強食や下克上、陰謀・謀略といった戦乱時代というステレオタイプ的なイメージがあるのも確かである。「戦国時代」イコール、戦争の多い時代という捉え方だ。それは正しいのか。よく考えれば、戦国時代といっても、四六時中戦っていたわけではなく、そこには人間の営みであるかぎり、きちんとしたサイクルがあった。平和な生活を送っていた時期もあるのだ。

 たとえば、連戦連勝から鬼神のごとく恐れられていた越後の上杉謙信にしても、戦争をする時には農閑期を主にしていた。兵農分離していないので、兵はふだん農業に従事していたのだ。その上杉謙信の生涯のライバルだったのが甲斐の武田信玄。城を造るよりも、人事を重んじて強力な軍団を組織した。この二人は、川中島の決戦で名勝負をし、それが後々に伝えられて伝説化した。しかし、講談にあるような一騎打ちという場面は、どうやら史実というよりも、後世に作り上げられた話らしい。

 それはそうとして、敵同士でありながら、この二人は互いに相手の実力を認めていて、好敵手として尊敬していた面がある。この武田信玄と上杉謙信には、共に出家したなど宗教心があり、「敵に塩を送る」というエピソードが知られている。

  【敵に塩を送る】(Wikipedia「塩」からの抜粋)

「内陸国である甲斐の武田信玄と日本海に面した越後の上杉謙信は当時交戦中であった。その最中、当時甲斐に塩を供給していた駿河の今川氏は武田氏と反目し始め、甲斐への塩の輸出を絶ってしまう。
 それを知った謙信は、永禄11年1月11日(1568年2月8日)に、越後の塩を送ったとされている(ただし、これはただ単に武田との物資のやり取りの禁止をしなかっただけとも言われている)。
 敵対国であるにも拘らず、塩を送った謙信の行為は高く評価され後世に伝わる。ここから『敵に塩を送る』(敵対する相手に援助を差し伸べること)という言葉が生まれた。松本市中央の本町にはその時塩を積んだ牛をつないだという『牛つなぎ石』が残っている」

 苦境に陥っていた敵をその弱点を衝いて攻撃するのではなく、かえって救いの手を差し伸べるというのは、乱世という戦国時代では考えられないことである。そこには、人間愛や正義を愛するという倫理観が背景にある。上杉謙信は同じ土俵に立ち、その上で正々堂々と戦おうという姿勢があった。それは、敵同士とはいえ、そこに人間的な交流があり、共に矛(ほこ)を収めたときには、平和な関係を結ぶという意識があったに違いない。その意味で、過去の時代の一エピソードにとどまらない真理がそこにあるといってもいいかもしれない。

 たとえ敵であっても、同じ人間として助けなければならない時は助ける。それは、同じ地球人類の一員として忘れてはならないだろう。翻って、われわれは現代の韓半島情勢を見たとき、餓えた北朝鮮の人民をそのまま放置して無視していいのかどうか。国家同士が対峙しても、そこに流されるのは同じ人類愛の血であり涙である。そのことを改めて、敵に塩を送った上杉謙信の故事から考えてみる必要があるのではないか。それは赤十字の博愛精神にも通じるものがあると言えよう。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 上杉謙信(Wikipediaより)    
【参考リンク】 武田信玄(Wikipediaより)    

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