41.朝鮮通信使を考える

2013年8月1日

 このところ日韓・韓日関係が領土問題・歴史問題などが政治や外交、さらには直接関係のないスポーツにまで波及し、その出口が見えない。しかも、その状態は益々過熱化し、厳しい緊張関係を生んでいる。

 お互いに相手を非難するだけでは、物事を解決させないばかりか、むしろ悪化させる傾向にあることは、歴史を振り返っても明らかであるが、それでも、東アジア情勢の中で、このような対立を続けていくことは、日本にとっても韓国にとっても、長い目でみれば利益とはならない。

 歴史問題は、早急に解決することは難しいが、同じ歴史であっても、どこに焦点を当てるかによって、その見方は大きく変わって来る。その意味でも、歴史を学ぶということは、そこから未来への希望や友好への教訓を読み取ることでなければならない。

 改めて、日韓・韓日関係を振り返り、その基本となってきた相互互恵の時代、平和な友好関係を、この際、再検証をしてみるのは少なからず意義があるだろう。その近隣関係のルーツは古代史にまでさかのぼることは言うまでもない。

 韓半島と日本は、海を通じて相互に行き来し、そこに技術の到来、人材の渡来による文化の発展など、交流はただ物質の往来だけではなく、相互に利益をもたらした。それゆえに、日本と韓国は歴史という歳月を通じて交流して来たのである。

 交易にしても、交流にしても、相互に影響を与える関係であって、一方的にどちらかが大きく恩恵を得たということはない。たとえ、そう見えたとしても、総合的にみれば、国益や平和友好維持に寄与する面があったからこそ、継続してきたとみるべきなのである。その点から、韓国と日本が戦争状態にあったときよりも、平和な関係にあった時代に、もう一度眼を向けることが今求められているのではないか。

 それが、平和友好交流の原点である日本と韓国が使節を通じて交わした「朝鮮通信使」である。朝鮮通信使は、1375年(永和元年)に室町幕府の足利義満が派遣したのが始まりとされている。その後、時の支配者の交代や戦乱によって途絶えたことはあったが、断続的に継続され、それが安定的な交流となったのは、江戸時代の朝鮮通信使の往来からである。

 この朝鮮通信使は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(韓国側では「壬辰倭乱」)によって悲劇的な状態だった関係を修復し、平和な交流をするきっかけになり、以来、朝鮮王朝からは最高の文化人が派遣され、また日本側も各地の高い教養をもった文化人が競って交流し、相互理解のいしずえとなったことはよく知られている。

 この交流によって、日本側が文化的に得たものも多かったが、朝鮮王朝側も得たものも少なくなかった。たとえば、救荒(きゅうこう)作物として知られているサツマイモは、日本からこの交流を通じて朝鮮にもたらされたものである。サツマイモは痩(や)せ地や傾斜地でもよく育ったので、「孝行芋(いも)」と呼ばれていた。

 「その『孝行芋』を朝鮮に伝えるのは1764年通信使の正使・趙(チョ)オムで、彼は対馬でその栽培法を学ぶとともに、甘藷(さつまいも)を持ちかえって釜山(プサン)と済州(チェジュ)島で栽培させた」「サツマイモは急速に慶尚(キョンサン)・全羅(チョルラ)両道に普及し、まもなく京畿(キョンギ)道まで北上する。そしてたび重なる飢饉から庶民の生命をまもるのに役立つ」(李進煕著『江戸時代の朝鮮通信使』講談社学術文庫)

 このような友好通信の交流を考えれば、今後、日本と韓国がどのような道をたどるべきかは、おのずと明らかである。外交関係の健全な構築はいうまでもないが、互いの文化を知るための草の根による交流こそ求められるべきだろう。現代版の朝鮮通信使が日本と韓国を往来しながら、両国の平和友好構築のために立ち上がることが急務なのである。

 その意味で、平和統一聯合が8月3日からスタートする北海道から列島縦断して韓半島を目指す「平和統一祈願!自転車縦走」に期待したい。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 朝鮮通信使 (Wikipedia)

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