45.日韓・韓日関係の新しい未来

2013年12月1日

 2年後の2015年に日韓国交正常化から50周年という節目の年を迎える。その50年を振り返ると、歴代の韓日の政権ではさまざまな問題があったとしても、おおむね良好に推移し、未来志向の友好関係を築いてきたと言えるだろう。

 1945年の日本の敗戦、そして、植民地下にあった韓国の解放(光復節)という状況からお互いに、戦後の足取りは復興という道を歩んできた。日本は敗戦国という立場からすべてを失ったにもかかわらず、ドイツのように分断されず奇跡的な復興をし、経済大国への道をたどり、今では世界をリードするほどまでに至った。同じ敗戦国であるドイツとともに、経済大国として短期間で世界史の舞台に復帰したのは、空前絶後の奇跡といっていいだろう。

 一方、韓国は、日本からの独立を果たしたにもかかわらず、韓半島において、アメリカとソビエトの対立がそのまま民主主義と共産主義の思想対立となって同じ民族同士が対峙する分断国家という、もうひとつの悲劇の道を歩んで来た。平和が訪れるという希望が打ち砕かれ、韓半島は北朝鮮と韓国という分断状態のまま戦後の復興をたどったのである。

 そして、最大の悲劇は、北朝鮮と韓国という韓国動乱(朝鮮戦争)を生み、同胞同士が殺し合うという悲劇の中で休戦協定が結ばれ、今なお軍事的緊張を強いられながら対峙し続けていることである。同じ民族同士でありながら、戦争によって親族が北と南に分かれてしまったことは、今なお離散家族の再会問題として尾を引いている。このままでは、早急に南北平和統一が訪れないかぎり、年老いた人々が亡くなってしまい、戦争の悲劇が幕を閉じることができないだろう。

 そのような韓半島の緊張状態の中で、日韓・韓日関係に国交正常化が図られたのは、1965年のことである。この時の正常化によって、日韓・韓日関係は新しい次元に入ったといえるだろう。すなわち、自由・民主主義国家同士としての協調関係・友好関係を維持し、イコールパートナーとして共存共栄の関係の構築である。

 そして、その戦後の経済協力問題が話し合われ、日本側から韓国に無償三億ドル、有償二億ドルを供与することによって、韓国は朴正煕大統領の指導で「漢江の奇跡」という世界にも希な経済復興の道をたどった。その後の韓国の奇跡的な歩みは、目覚ましいものがある。その繁栄の基礎となったのが、日韓・韓日の国交正常化にあることは間違いない。

 そして、その国交正常化とともに、日本から技術の韓国への移転があったことも忘れてはならないだろう。その他の日本の企業も技術協力して、今日の発展の基礎がなされた。その意味で、韓国の経済発展の基礎となった製鉄業のポスコ(浦項製鉄)が生まれた背景には、日本の宰相の知恵袋と言われた陽明学者である思想家・安岡正篤という人物の介在があることを改めて思い起こす必要がある。

 安岡は古代に日本が韓半島から恩惠を受けたことを返さなければならないとしたのである。当時、資本も技術もあまりなかった韓国で、総合製鉄所を建設するということは、ほとんど不可能なことだった。この状態のままであれば、韓国の奇跡的な経済復興はありえなかっただろう。

 その韓国の危機に際して、安岡正篤が日本の製鉄業と草創期の韓国のポスコを結びつけ、技術の供与したことは、両国が対立ではなく共に共存共栄していこうという平和の精神のなせるわざだったということができる。それは中国やロシア、北朝鮮という東アジア情勢の中で、日本にとっても国益にかなうことであったことを知る必要がある。それによって、日韓・韓日関係の友好がたどられてきたのだが、ここ数年、その平和友好関係がゆらいでいくような緊張関係が生まれていることは残念なことである。

 過去のマイナスの歴史だけではなくプラスの歴史を振り返り、両国が共存共栄していくイコールパートナー関係の再構築こそ、今願われていることであることを改めて再認識しなければならない。それがアジアと世界の平和に貢献することになる。

平和大使在日同胞フォーラム代表 鄭時東(チョンシドン)

【参考リンク】 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(Wikipedia)
  安岡正篤(Wikipedia)

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